縁起
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えんぎ/ゆいしょ

 草創は、久寿元年(一一五四)、開基八牧(山木)判官平兼隆。公は治承四年(一一八〇)八月四日逝去す。名は香山寺殿興峰兼隆大禅定門。この当時は禅宗にあらず密宗なりしという。開山和尚は不明なり。その後百七十余年を経て寺門頽廃するに至る。その後足利尊氏公の太父(祖父)家時公、元徳二年(一三三〇)四月開榛(荒れた土地を切り開く)して野州雲厳寺(栃木県那須)開山高峰顕日(勅諡)仏国禅師応供広済国師)の法嗣佛乗禅師を請じて開祖とす。その頃は独立本山にして塔頭五院ありて輪番地なり。七堂伽藍整備して百器具足(器量ある僧が多数いた)、豆南(豆北か)の巨刹、海東の叢林(五山系でも有名なと称せられる。さらに足利氏の末世に及び天下争乱の世となり寺門衰頽、塔頭両院を残す有様となった。
 然る時小田原北条氏長氏公(早雲)、諸堂伽藍を中興し、境内地二万五千荷役六十一坪、門外の寺領永二十三貫文(永銭に換算するとの意)を寄付せらる。世は更に再転して秀吉の小田原征伐となり、本寺もその災を受けて宝物器具を焼失するに至る。慶長二年(一五九七)韮山城主内藤三左門 尉藤原信成公、また費を投じ再興せらる。
 元禄五年(一六九二)、建長寺の指名を受けてその末寺となる。江戸幕府の本末制度の励行を受けざるを得ざる法令に従いしなり。幕末に及んで嘉永六年(一八五三)十月二十五日、町家の延焼により類焼を免れず、遂に堂宇宝物古記等録残らず灰燼に帰せりと伝う。

かいき たいらのかねたか 

歌川国芳 画 

平(山木)兼隆 /たいらの(やまき)かねたか

生年月日不詳-治承四年八月
平安後期の武士。日本史の記述では、その時代を「武士の台頭」とするが、実際は、藤原氏の公家の日常を踏襲していたと考察できるちなみに「香山」とは、中国の香山寺に由来すると思われるが、公の別称でもある。
平信兼の子で、親子間の不和により伊豆韮山に遠流(源頼朝、既にこの地にあり)される。山木夜襲の数カ月前に父・信兼和解。国司・平時忠の目代となり、山木判官に就任す。治承四年(1180)八月、三島大社祭礼の夜に山木館は急襲され、頼朝の家来の加藤次景廉に馘首される。この件に関しては数々の史料があるが、ここでは「平家物語」の一節を記す。
 
兼隆がうたる
これによって、國々の源氏、謀叛をくわたて、思ひ思ひに案をめぐらす所に、頼朝はやく、平家の侍 に、和泉判官兼隆、當國山木が館にありけるを、おなじく八月十七日の夜、時政父子をはじめとして、佐々木四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景信以下の郎従らをさしつかはして、うちとりをはんぬ。これぞ、合戦のはじめなりける。
 
女官の才覚により、某男は越中に逃れて豪族の娘と結婚し、正木姓を名乗った後に、時代を経て、山木の姓を用いると伝う。四男兼盛は、高野山に逃れ、成慶院にて出家。一族郎党は、秩父山中で数年間の隠棲をした後、現在の山梨県北杜市に居し、武田氏の庇護を受け、兼盛の還俗を請い、棟 梁として迎え、その後八巻姓となる。昭和四十九年、全国二千三百世帯以上の八巻氏のうち有志で「八巻同族会」を結成。平成二年八月十七日には、当寺檀徒と同々族会より喜捨を頂き完成した、古代五輪塔を模した供養塔の入魂並び開基兼隆の八百十一年遠年忌法要を厳修する。
兼隆は歿後いつの時代からか、私社兼隆社として当地で祠られ続け、明治十三年山木皇太神社に合祀される。法名香山寺殿興峰兼隆大禅定門。

 

りんざいしゅうかいき あしかがいえとき

足利家時

生没年月日不詳、一説では康永二年二月二十日歿(1343)臨済に改宗の際の開基と伝える。足利頼氏の子、母は上杉重房の娘。尊氏・直義兄弟の祖父にあたる。今川貞世の『難太平記』によれば、同家伝来の八幡太郎義家(清和源氏)の置文に、「七代の後に再び生まれて、天下の政を取らん」と記されており、家時はその七代の孫に当るが、衰えつつあるとはいえ北条の世、時節到来の機でないことを悟り、三代の後(尊氏・直義)に天下を取ることを祈念し、「わが命をつづめて、三代の中に天下を取らしめ給え」と三十五才の若さで自害す。これは中国の故事に倣ったものと思われるが、史実性には疑いがある。八幡宮に収められた新たな置文を父貞氏より見せられた二人が、その遺志を実現せんがために、源氏再興の旗を上げたといわれている。法名 報国寺殿贈従三位義恩仁公大居士。

ちゅうこうかいき ほうじょうそううん

 

北条早雲 

戦国時代の武将で後北条 (小田原北条)の祖。名は長氏・氏茂、通称を伊勢新九郎という。彼自身は北条を名乗ることはなかった。また、早雲庵宗瑞は出家後の法名であり自称。素浪人出身の説もあるが、室町幕府政所伊勢氏の一族で、申次衆伊勢新九郎盛時との説が有力。青年時は将軍足利義視に仕え、義視の伊勢下向に従い、その後に妹北川殿の嫁ぎ先・今川義忠を頼って駿河に入り、義忠死後、家督争いを調停、北川殿の子・龍王丸(氏親)を棟梁とし、この功により駿河富士下方十二郡を得、興国城主 (沼津市)となる。延徳三年(1491)、伊豆堀越公方・足利茶々丸を討ち、伊豆を掌握して韮山城を本拠とした。明応四年(1495)に小田原城攻略の後、相模に進出。鎌倉を押さえ、玉縄城を築き、永正十三年(1516)には三浦氏を滅ぼして相模を制す。家訓に「早雲寺殿廿一ヶ条」がある。
 当寺との関係では、城下集落の砦としての保護は元より、来韮以前に大徳寺にて出家の経緯あり、済家の当寺に以天宗清を請し、境内地二万五千二百六十一坪と内外の寺領を寄付し、諸堂を創建時同様に復興したと思われる。その後も後北条五代の間、庇護を受ける。
 韮山を拠点とした早雲は、関東攻略後も八十八歳で歿するまで約三十年間も韮山城 (龍城)に常住したのは、政治・経済に画期的な行動を伴う手腕を発揮し名領主の誉れ高きことや自ら再築城した愛着もあろうが、何より住み心地よい気候風土がなした技とみるのが自然であろう。法名 早雲寺殿天岳瑞光大禅定門。
 尚、豊臣秀吉の小田原攻めの際、千利休は随行し、当地滞在の際に江川家の真竹で、花入れ「園城寺」(東京国立博物館蔵)を製作している。また、大徳寺派で出家した際の諱の頭文字は、宗・紹・妙・義を用いることを付記す。

さいちゅうこうかいき ないとうのぶなり

 

内藤信成 

天文十四年五月五日―慶長十七年七月二十四日(1545―1612)三河以来の徳川 (松平)家の武将の家系である内藤家故、後に記す法名をみればわかるように浄土宗に帰依しており、鎌倉の光明寺に内藤家墓地がある。当寺文書には、再中興開基内藤三左衛門尉藤原信成とあり、松蔭秀西堂を再中興開山とし、慶長二年(1597)に費を投じ再興すとあり。その意は、早雲の行跡を継いだものと徳川家康と北条氏規の関係(共に同時期に今川家の人質となる)に依るものであろう。これ以後は、大檀那の出現なし。信成は、織豊、江戸初期の武将で島田景信の子。内藤清長の養子となるが、徳川家康とは異母弟の説もあり。家康に任え、三河一向一揆の鎮圧、三方ケ原や長條の戦い等で功を挙げ、家康関東入封後に伊豆韮山城一万石を領し、慶長六年、駿河府中藩四万石(この移封により韮山城は廃城となる)、同十一年に近江長浜藩四万余石に転ず。法名 法善院殿太誉陽竹宗賢大居士。行年六十八歳。

りんざいしゅうかいさん てんがんえこう ぶつじょうぜんじ

 

天岸慧廣 佛乘禅師

  武蔵の国比企(埼玉県)に文永十年(1273)に誕生。俗姓は伴氏。十三歳になった弘安八年(1285)、時の建長寺住持無学祖元(佛光国師・円覚寺開山)について得度す。翌九年九月三日に無学の示寂に会い、同年十一月八日、奈良東大寺戒壇院に登り、黄紙の度と戒牒を受け、また大 乗具足戒を受ける。度牒と戒牒は重要文化財で、鎌倉報国寺に現存する。その後、行雲流水し下那須の雲厳寺に至り、同門の法兄高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子・建長十四世、塔所は正統院)に参じ、終にその法を嗣ぐ。そして円覚寺前堂首座を勤めたが、中峰明本の家風を慕い、元応二年(1320)に寂室元光(永源寺開山)や物外可什(建長37世)、無礎妙謙(国清寺開山)等と入元す。
 古林清茂や清拙正澄(建長22世)ら諸師について学ぶ傍ら、竺仙梵僊(建長29世)に兄事して偈頌の作成にも熱中し、「金剛幢下」の家風になじむ。明極楚 俊(建長23世)、竺仙に先師古林の仏法を日本に流布して呉れるよう、また規矩厳正な神林の一見を願い (明極は竺仙の同行が条件であった)、竺仙の決意を以て、元徳元年(1329)物外・雪村友梅等と共に同船にて来朝・帰朝す。船中、天岸の題詠の偈に明極等がその韻を和したことは有名な佳話で、軸装された和什に天岸が序を撰文し、それを『滄海餘波」という。帰朝後は物外庵に閑居していたが、元徳二年、請われて伊豆の香山寺に住す。次で浄妙寺に昇住したのち、自ら「休耕」と称して隠居。建武元年(1334)、報国寺開山に迎えられる。退居後、寺内に「休耕庵」を営む。翌建武二年三月八日、六十三歳で示寂。その遺偈は「末後一句、佛祖不知、掲翻大海、躍倒須彌」という。偈頌集を「東歸集」といい、自筆原本は今も報国寺に現存し、佛乘禅師像一幅や堆朱印框入木印と共に重要文化財に指定されている。
 同じ嗣香の夢窓疎石(天龍寺開山・円覚15世)また別伝妙胤とは特に交友があり、法嗣に虎渓玄義(香山・報国2世)、在中廣行(寿福38世・報国3世・国清4世)、天用廣運(浄妙47世)、東洲妙昕がいる。

 元鎌倉国宝館々長三浦勝男氏は、かって朝日新聞神奈川版の「かまくらの秘仏」の中で、開山 (木造仏乗禅師像報国寺蔵)を「怜悧で学徳高い姿活写」と題し、次のように述べている。
「本朝高僧伝」ほかの諸書は、「その怜悧(れいり= 賢いこと)、禅学のほか文翰(ぶんかん = 書きもの)に達し、詩偈人に過ぐ」とのべて、禅師の学徳を称賛している。
 像は、首内側の銘によって、貞和三年(1347)二月、仏師運朝の作、禅師が他界してから十二年後に造立された肖像彫刻であることがわかる。額にきざまれた波紋のようなしわ、眼尻(めじり)のさがった両眼、うすい唇。そして何と大きな双耳であろう。釈尊のことばを敬聴し、労苦する衆生の声を聴きとり、こ
れを安心の境地に導いた布袋(ほてい)耳とでもいえそうである。
 この大きな耳ですべてを感得し、覚知したと思える怜悧で学徳高い生前の姿を、みごとに活写した肖像彫刻である。ちなみに、伊豆の香山寺には、この頂相(ちんそう)を模刻したとみられる禅師像が安置されている。

 当寺の開祖像は、初め報国寺休耕庵主・玉堂祖昆(同寺19世)より、延宝九年(1681)三月八日に寄付されたが、その後焼失したと思われる(胎内銘札は現存す)。現在の聖 像は、天保十一年(1840)、本堂完成の際に報国寺閑栖太雅音東堂(同寺25世)より寄贈されたものである。
 また報国寺記(宝徳年間・一四四九1449~51頃のもの)によれば、天岸が、香山寺を弟子の虎渓玄義に譲ったことを記した後、次のような一節がある。
 
 八月十二日、檀那忌、一衆晩炊、献粥点心熱麺、斉会一番座了鳴堂前鐘、
 僧衆赴円成寺、開山塔総持院諷経、此時沙渇年中之活楽也、

円成寺址は、当寺より北々東2.5キロの所に位置し、八月十二日を忌日とする檀那とは、円成寺の開山かつ開基である覚海円成尼(北条貞時の妻・高時の母、法号は総持院)で、当山僧衆が、開山塔・総持院へ出向き諷経を行ったことと円成尼が、香山寺の檀那であったことがうかがえる。
 

ちゅうこうかいさん いてんそうせい 

 

以天宗清 正宗大隆禅師 

 天文二十三年(1554)一月十九日示寂。東海宗朝(大徳73世)の法嗣で、山城の人。号を機雪といい、大徳83世の住寺。
 元禄十四年(1701)の「早雲寺記録」によれば、北条早雲は在京の折、以天和尚に参禅問答をし、伊豆韮山に隠居の際、以天和尚を請待す。香山寺に暫く居住。早雲逝去後、遺言で氏綱が早雲寺を建立し、以天宗清を開山とす、とある。
 「北条五代と早雲寺」(「箱根町誌」第二巻)には、永正六年(1509)以前に、大徳寺の以天宗清が香山寺の住持になった、と記されている。然らば当寺の中興開山は、以天をおいて他なしであろう。年代的には永明院五世にあたるが、特例として香山寺住持であったとも推察される。また、以天は蜷川氏の出身、伊勢氏の被官の家柄であり、早雲も伊勢氏で系譜的につながる可能性と法脈が春浦宗凞を双方とも継いでいる、と『北条早雲のすべて』に記載されている。

 
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